- HOME >>
- 神符についてのQ&A
神符についてのQ&A
・破れたり水に濡れたりすると効力がなくなり場合によっては災いが起こります。
・他人に見せる、触らせる、事は禁物です。(家などに貼る御神符は例外です。)
・神佛に対して敬いを忘れないこと。
・欲張りすぎないこと。 ・願望が成就するように信じること。 ・御神符の裏に生年月日、氏名、願望を明記する場合は墨汁で書くのが一般的ですが、直接書くことに抵抗のある方は白い紙に書いて御神符の裏に貼るもしくは同封して身に付けてください。
青龍堂の御神符にのみ頼ることや、他力本願は絶対に駄目です。
結果が全てではなく困難に対して取り組む姿勢が大切です。
その結果失敗してもそれは恥じる事ではありません。
失敗なくして成功はありえません。
※青龍堂の御神符の効果は半永久的に続く御神符と使用回数が限られている御神符がありますので基本的には1年を目安にしてください。
御神符の沿革
悠久な中国史において霊符が登場するのは黄帝が怪物、蚩尤(しゆう)との戦いで苦戦した折りに九天玄女(きゅうてんげんにょ)から『陰符経』を賜り、勝利を収めたというのが最初でしょうか。後世重視された『黄帝陰符経』がそれです。黄帝(こうてい)は奇門遁甲術を授けられたというのが通説ですが、それは一般に知られる方位学としての遁甲でなく実は霊符を使う秘訣なのだということは、ほとんど知られていないようです。
専ら霊符と言えば、五斗米道で有名な張天師、つまり江蘇省豐縣人、張道陵(ちょうどうりょう)34〜156年こそが代表的人物でしょう。彼に従う門徒は日を追って増えたといいます。入道するのに五斗の米を奉納することから五斗米道と呼ばれ、魏晋代以降には天師道と呼ばれ、金元代以後になると正一道と改め、中国南方で盛んに広まったと伝えられています。
『歴代神仙通鑑』、『列仙全傳』には張道陵は若い頃、五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)を研鑽した学生だったが、寿命については役に立たないと嘆じ、長生の道を目指します。老子の『道徳經』を学び、後に四川鶴鳴山に隠居して太上老君から真傳を得てより、魔を駆逐し邪を除く法力無辺なるを悟り、元始天尊(げんしてんそん)から「正一三天扶教輔元大法師」の名号を賜り、治せぬ病はなくなり、信徒の数は数万戸に達し、最後に白日昇天し去ったと。
『抱朴子』の巻九「道意」に葛洪(かつこう)は霊符の必要性を述べています。
「或る人が、道術を心得てもいないのに長命な人があるのは何故かと問う。私(葛洪)は答えた、それは陰徳を積んだか、もともと長寿な運勢なのか、それとも偶然、災害に遇わなかったかだ。害を防ぐには、体を守る修行をし、御神符(おふだ)や宝剣を帯びるがよい。
祈祷は無益である。自分の侵すべからざることを恃みとずべく、鬼神が自分を侵さないことを恃みとしてはならない。自然の道に任せ、方術を知らぬ者でも、天年を全うできないことはないが、邪鬼の攻撃や疫病の流行に際しては身を守るべくもない。蓑笠は雨さえ降らねばなくても事すむが、大雨が降れば、蓑笠を持たない人は忽ちに困る。その意味で方術はやはり必要である。」
葛洪は「害を防ぐには、体を守る修行をし、御神符(おふだ)や宝剣を帯びるがよい」と明言していることに注目。現代社会では刀剣類は所持できないから「御神符」なのです。
『抱朴子』の著者、葛洪(284〜363)は呉の人で祖父、葛系の従兄弟に、葛玄(『神仙伝』巻七に記載あり)という仙人がいたから、自然と仙道に惹かれたのでしょう。父の葛悌の代に呉は亡び、父は晋に仕えて地方官になった。葛洪は三男に生まれ、幼い頃父に死なれ家は貧しく、薪を売っては紙を買い、遠くまで蔵書家を訪れては写させてもらって学んだ。儒学はもとより諸子百家、風角占や遁甲術まで研究したというくらいだったようです。
葛玄(かつげん)は三国時代の左慈仙人の弟子で、煉丹の術を授かり、鄭隠に伝え、鄭隠は葛洪の師匠です。その後、葛洪は南海太守の鮑玄に師事。そして鮑玄は青龍堂の鮑義忠の遠い先祖にあたります。もっと遡ると春秋戦国の宰相、管仲(かんちゅう)の無二の親友である鮑叔牙(ほうしゅくが)に行き着きます。私が道術に打ち込むことになった背景には血縁があったからだと思われます。御神符を描くことになったきっかけ
あれは五年前のことでした。強健と言ってよいほど元気に仕事をこなしていた父が突然末期の舌癌に罹り、何度か台湾の寺廟に詣でて病気平癒のお祈りをしていました。そのときから私の身の周りで神懸かりとしか思えない不思議なことが、立て続けに起こり結局、父は医師から余命半年だと宣告されていたのが、なんと手術もせずに完治したのです。父は今では人並みに仕事に励み、東奔西走しても根を上げず、むしろ病気する前よりも元気になったと知人たちから祝福されています。
父の病気が発覚してなす術も無く窮地に陥っていたある夜突然、關聖帝君さまから「お前の父を助けてやる。ただし義を尽くせ」と御告げを頂きました。私も「何か人のためにできることはないだろうか」と思うようになり關聖帝君さまのから許可を頂き御神符を書いて友人や知人などに渡した結果、信じられないようなことが頻繁に起きたのです。
自分の過去世を教えられ現世で何をするべきか判明しました。
私の師は横浜中華街の関帝廟落成の際、御霊入れ(開光)を執り行った道士である台湾の玉祖三清殿の林文瑞老師です。林老師から最後の弟子にして頂き、道教秘伝の門外不出の御神符の写法と七星剣、玉宝、符咒術、開光點眼を伝授して頂きました。
鮑 義忠(ほう・ぎちゅう)
”プロフィール”
81年台北市生まれ。父は風水師の故鮑黎明。24歳の時に現在の神仙界の最高神である玉皇大天尊玄靈高上帝(關聖帝君)から御告げが届くようになり、それ以来、身の回りで不思議な体験し、關聖帝君の直々の命を受けた台湾の道教法師である故林文瑞老師(無極玉祖殿の最高責任者で横浜中華街の關帝廟落成の際に開光點眼(お御霊入れ)を行った)の生涯唯一の直弟子となり道術と法術を修める。玉皇大天尊玄靈高上帝關聖帝君との「神人合一」を目指し日々研鑽に励む毎日を送っている。